2021年07月19日

オリンピック:スポーツライターや選手の発言に思う

 スポーツライター川端康生さんの Yahoo! ニュース個人での記事。

 確かに、政権批判と東京オリンピック批判を一緒くたにするのは、よろしくないと思います。現政権と東京オリンピックはそれぞれに問題を抱えていて、それらは密接に絡んでいるけど、ちゃんと分離して論じないといけない。川端さんが難じておられる「天声人語」の原文は読んでいませんが、引用されている部分を読めば、確かに「それはないだろう」と思わせる文章ではありますね。(もっとも、「天声人語」の文章は概して情緒的で飛躍が多く、「文章のお手本」になるものではないと個人的には思っています。)

 ただ、川端さんの記事の以下の部分を読むと、「スポーツとは関わりの薄い人の視点」が欠落しているな、と感じます。猪瀬元知事も「(オリンピックに感動しないなんて)寂しい人だね。」と切って捨てていましたけど、同じ発想ですね。川淵三郎さんの発言も、根っこは同じでしょう。

 これまで「感動したり勇気もらったり」していた(はずの)人が、手のひらを返すように「見る気が失せた」などと呟いてるのは僕も何度も目にした。

 そんな書き込みを見ると、もともとスポーツが好きだったわけではなく、盛り上がりたかっただけなんだろう、と思うしかない。残念だが、それが日本の現実なのだと諦めるしかない。

 本当に寂しい話である。

 スポーツへの思いがその程度でしかない人なんてたくさんいるわけですよ。平時であれば、「普段見ないスポーツを見て、感動し、熱狂する」ことがあったとしても、他のことをいろいろ我慢して苦しい時には、そうはならないわけです。だからこそ、「○○は中止になったのにオリンピックはやるんかい」という怨嗟の声が世に溢れている。

 「スポーツの力」は、確かにあると思うんです。記憶に残る例として、東日本大震災のあと、東北楽天ゴールデンイーグルスの選手たちが、被災者の方に笑顔を届けたいと尽力したこと。同じ年に、女子サッカーがワールドカップで優勝したこと。このとき、それぞれの選手たちは、震災と原発事故で人々が大変な思いをしているのに「こんなこと(スポーツ)をやっていていいんだろうか」と、ものすごく葛藤があったに違いないんです。楽天イーグルスの場合は、自分たちに何ができるかを考えた末に、選手会長の嶋選手が、有名な「野球の底力」スピーチをした。これが、避難所暮らしの人々の心をつかんだ。スポーツには、傷ついた人を癒す力が確かにあります。

 でも、今回の東京オリンピックについては、その力の使いどころを間違っている。聞こえてくるメッセージがことごとく、「スポーツにあまり関心のない人」の神経を逆撫でしている。これは、「発信の仕方を間違っている」(=もっとうまくやればわかってもらえる)というレベルの話ではないと思います。オリンピックに関わる人々が、ことごとく「上から目線」だからこうなってしまう。「自分たち以外の人々の視点」への想像力が欠落しているとしか思えないのです。2011年のイーグルスの選手たちが、「自分たちは受け入れてもらえるんだろうか?」と自問しながら避難所を訪問していた状況とは、あまりにも異なっています。

 もう一つ、サッカーの吉田麻也選手のコメント。

 吉田選手はオーバーエイジ枠の選手の立場として、チームの若い選手たちの声を代弁しているのだと思います。スポーツに人生を捧げている人としては、当然の思いでしょう。なお、私はサッカー日本代表の中でも、吉田選手は特に好きな選手の一人です。プレイスタイルには勇気を感じますし、こういう風に意見をはっきり述べることができる、という点でも、尊敬できます。

 それでもやっぱりね、この訴えは私の心には響いてきません。吉田選手のコメントの中で、「リスクを背負ってでも見たい人はいるだろうし」とありますが、リスクを背負うのは観客だけじゃなくて医療関係者でもあるわけです。そして、医療関係者からは、「そのリスクを負ってでもオリンピックを開催してほしい」という声はあまり聞こえてきません。

 吉田選手が日本代表で結果を出すために人生を懸けて、ご家族共々大変な犠牲を払いつつ努力されていることを知らないわけではありません。一方、このコロナ禍で、「人生を懸けてきたものがなくなってしまった」人は、あらゆる分野でたくさんいるわけです。もし、オリンピック選手は特別なんだ、と主張するのであれば、その思いが国民に広く共有される必要があるでしょう。ところが、上に書いた通り、聞こえてくるメッセージがことごとく神経を逆撫でするものだから、その思いを共有することは残念ながらもうできないよ、ということなのです。少なくとも私には。

タグ:社会
Posted at 2021年07月19日 23:19:38
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