2023年05月18日

「テロルの原点」(中島岳志著、新潮文庫)

 1921年に財閥トップの安田善次郎を無名の青年が殺害した事件について、犯人の朝日平吾の半生をたどり、背景について考察した書です。2009年に筑摩書房から出版された「朝日平吾の鬱屈」を改題して、2023年2月に文庫化された。

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 文庫版のまえがきでは、もちろん安倍晋三元首相の暗殺について述べられている。それは、著者の中島氏にとって「最も恐れていたこと」だった。なぜ中島氏がこのようなテロ行為が起きることを「恐れていた」かは、原著本文の最終章である「おわりに —— 二〇〇九年六月」に、まるで予言するかのように書かれている。

私は、現代日本社会でテロが起きてほしくない。本当に起きてほしくない。

しかし、このままでは、安田善次郎刺殺事件のような出来事が起きてしまう可能性が充分にある。

だから、そんなテロが起きないように、社会を立て直していかなければならない。多くの人の居場所を作っていかなければならない。(後略)

本書 244〜245ページ

 中島氏はまた、原著の「はじめに」の中で、赤木智弘氏の「希望は、戦争。」論(2007年)についても触れている。赤木氏と中島氏は1歳違いで、ともに「氷河期世代」に属する。中島氏は、赤木氏が語る「屈辱」「尊厳(の回復)」といった言葉が、朝日平吾の抱えていた実存上の問題と相通じることを指摘する。そして、この問題を生み出した社会的背景として、大正後期と現代に共通する「格差社会における潜在的な鬱屈」があるとする。

 中島氏はこの本の中で、朝日平吾の半生を追っていく。個々のエピソードを表面的に読めば、「いやそりゃうまくいかんでしょ」と感じる点も多い。つまり「自己責任」論だ。しかし、本書から読み取るべきメッセージは、朝日平吾がしょうもない奴だった、ということではない。朝日平吾の行動を、そういう「個人的な性癖」に矮小化してしまってはいけない。一方、「社会が悪いからこういうことになった、やむなく事件を起こした朝日平吾は社会の犠牲者だ」と読むのも筋違いである。いくら社会が悪かったとしても、人を殺すことはダメに決まっている。犠牲者は安田善次郎で加害者が朝日平吾である、という事実は変わらない。

 私が本書から読み取ったのは、「社会から疎外された人が鬱屈を抱え、それが暴力として現れる」という普遍的な過程が存在すること、およびその過程が現代の日本社会にも共通していること、である。そして、その鬱屈を解決するための簡単な手法は、残念ながら存在しない。しかし、上の引用部分で中島氏が述べたように、「社会を立て直し、多くの人の居場所を作る」ことは、一つの希望にはなり得る。

 「社会を立て直す」というとき、これを「政治の力で解決」しようとするのはかえって危険だ、という中島氏の指摘にも注目しておきたい。政治が「敵意のはけ口を設定する」ことで人々にカタルシスをもたらしても、解決にはならず、かえってより大きな暴力を引き起こすことになる。現代でも、一部の野心的な政治家が「既得権益を壊す」ことを声高に訴えて支持を得ているが、これはとても危険な動きだと思う。荒療治は危ない。ゆるやかな変革を目指さなくてはいけない。

タグ:読書 社会
Posted at 2023年05月18日 00:12:15
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